川越城と城主
川越城と城主
 
川越城本丸御殿室町時代初期の武蔵国は、河越氏が挙兵した「平一揆の乱」制圧で実績のあった上杉氏の支配である。当時の武蔵国は、上杉氏と足利氏との抗争状態が激化し混乱した状況であり そうした時代背景から上杉氏が足利氏と対陣するために 長禄三年(1457)家臣である大田道真・道灌(どうかん)父子に命じて江戸・岩付・河越の三城を同時期に築城した。
この三城の特徴は、舌状(ぜつじょう)にのびた台地端にあり 近隣には川が流れ 辺りを低湿地にすることにより 敵に対する防備として備え、まさに自然の要害の地であった。大田道灌は、築城家であり戦略家としても知名度の高い武将であったと云う。
この頃、室町幕府は上杉氏を支持する立場をとっていた。(写真:川越城本丸御殿)
 
 

酒井氏略系図川越藩初代城主酒井家

徳川氏家臣の中で特に三河時代以来徳川氏に臣従してきた家臣を譜代というが、徳川氏に帰属した時期を関ヶ原合戦以前と以後とで分けて前者を譜代、後者を外様と区別している。酒井氏は、家康の父「松平広忠」の代から仕えはじめている三河譜代の筆頭格の家柄である。
酒井氏の祖、広親の長男・氏忠の系統を左衛門尉(さえもんのじょう)酒井氏、次男・家忠の系統を雅楽頭(うたのかみ)酒井氏と称していた。徳川四天王に数えられた酒井忠次は左衛門尉系で、この系統は後に出羽国鶴岡藩主となった。川越藩主となるのは、雅楽頭系の酒井重忠・忠利兄弟と忠利の長男・忠勝であり武功派としての戦歴も残している。酒井氏両家は将軍の厚い信任のもと幕閣の要職に就くなど、譜代の中でも重きをなしていたのである。
天正十八年(1590)徳川家康が関東入国の際、川越城に封じられた酒井家は徳川幕府初期の要職を務め川越藩の基礎も固めた。

 
 
 
川越城武器方資料 盾
(たて) 室町時代
縦112センチ・横43センチ・厚さ6センチ

川越城に置かれ、争乱の時代を経た後に 川越藩祖酒井氏が紋章を記したとされている。関ヶ原戦の功績もあり、酒井氏が全盛期であったことが見うけられる。公家風な優しい植物紋の空き間に剣が付け加えられ 武家ならではの厳つい家紋(丸に剣酢漿草:けんかたばみ)である。この木製の盾には、歯車が取り付けられおり実戦用に作られている。全国に現存する古武器の中でも盾は極めて少なく、太田道灌の世を知る貴重な歴史的遺物である。


・大名時計・御貸刀・その他
 
 
城主松平大和守家伝来 采配
(さいはい)江戸時代

軍陣を指図する主将の指揮具。身分の高いものには このような房が付いた。松平大和守家に伝来する貴重な采配である。親藩大名家らしい家勢を誇っている。

松平大和守家
松平大和守家は、明和四年(1768)から慶応二年(1866)までの約100年間、7代にわたって川越城主を勤めた。徳川家康の次男・結城秀康(ゆうきひでやす)の五男を祖とする御家門(ごかもん)の家柄である。天保十二年(1841)松平大和守斉典(なりつね)の時代には、川越藩では最大の十七万石を領した。


・葵紋散し大小拵(だいしょうこしらえ)・刀掛(かたなかけ)
・葵紋付蒔絵薙刀(まきえなぎなた)・葵紋付空穂(うつぼ)
・黒漆塗り葵紋散し燭台・遠見鏡(とおめがね)
・葵紋付陣笠・葵紋付文箱・その他
 
 
みつおおぎもんはた
(みつおおぎもんはた) 江戸時代
縦120センチ・横30センチ

寛永十四年・島原へ一揆鎮圧に向かった信綱(のぶつな)軍は、白地に黒く「三つ扇紋」の馬印で知られている。この三つ扇紋旗には、平安時代から使われる 陰陽道(おんみょうどう)の「清明星と祈願の印」・修験道(しゅげんどう)の魔祓い「九字の印」が、7ヶ所の旗乳(はたち)に縫い記されており 特別な祭式に掲げたと伝えられている。

松平伊豆守信綱
信綱は、慶長元年(1596)幕府代官の大河内久綱の子として生まれ、六歳のときに叔父の松平正綱の養子となった。家光の誕生後まもなく召し出され九才にして小姓となり家光に仕える。のちに「知恵伊豆」と呼ばれる才気で老中となり三代将軍家光を支え、徳川幕府に仕えた。島原・天草一揆(1637〜38)を鎮圧した功績によって武蔵国忍藩三万石の城主から寛永十六年(1639)六万石に加増され川越城主となり、川越藩政の確立に大きく寄与した譜代大名。
 
 
城主松平周防守康載 正室・花子所用 かんざし
江戸時代

江戸時代後期の作である「かんざし」は、金工師の優れた技術と格調ある仕上がりで 上位の女性が身につけるにふさわしい装飾品である。繊細な装飾には、金・銀・珊瑚(さんご)・水晶を使い、鳥籠の中には金と銀で小鳥の細工がほどこされ 入念な金工の妙技である。松平周防守康載(やすとし)は1871年の廃藩置県により川越藩知事を免じられ その後に華族となる。
※正室の名:花子(松平家系図より)

松平(松井)周防守家
松平周防守家は、本姓を松井と称し東條松平家に仕えていた。初代にあたる康親(やすちか)が戦で功績をあげ、家康より「松平」の姓を賜り徳川幕府の重臣として活躍をした譜代大名。
慶応二年(1866)松平周防守康英(やすひで)が奥州棚倉より八万石で川越城に入封した。のちに康載(やすとし)が家督を継ぎ2代にわたり幕末の動乱期を経た川越城主。


・金蒔絵匂い袋・金蒔絵のくし・黒漆塗り松梅蒔絵香炉・その他
 
 
川越城平面図

城の築城時は、本城と練兵場を合わせた程度であっと推定され平城で砦的な要素が強い。城の中央には太鼓櫓、東北の隅に虎櫓、本城の北に菱櫓、南西に富士見櫓の四つの櫓があった。高台にあった富士見櫓が天守閣の代わりで、敵からの攻撃や侵入を見張っていたのである。城内にある三芳野天神や、江戸時代に入り堀と屋敷がしだいに拡張されていく様子もうかがえる。城の拡張整備も松平伊豆守家の時代に完成し 面積は約326,000u(東京ドーム約7個分)であった。西大手門を正門として街道が整えられ、その先に城下町が広がり賑わいを見せていた。弘化三年(1846)二の丸炎上の後に、跡地を練兵場として使用し 焼失した武器武具方役所・番所は 再建され監獄も置かれていたと云う。現在、城の建造物として残されている本城の一部は城主松平斉典が嘉永元年(1848)に造営したものである。
 
◆虎櫓(とらやぐら)城の出入り口を警護した建造物。
◆菱櫓(ひしやぐら)食料を保管した建造物。
◆富士見櫓(ふじみやぐら)天守閣の代わり。
◆太鼓櫓(たいこやぐら)太鼓が置かれており時刻と非常時にはそれを乱打して城下に知らせた。
◆堀(ほり)川越城の堀は、もっとも幅の広い所で 20 メートル を超え 深さは5メートル を超える所もあった。その特徴は、土地を掘り下げながらそのときに排出した土を内側に積み上げて土塁を築き、底へいくにしたがって狭くなる逆台形型になっていた。中世に築城された城は土塁で守られ、近世の城になると石垣に変わっていくのである。
 
 
明治維新後の川越城
明治四年(1871)築城以来 414年続いた川越城は、新政府の廃城令に伴い次第に解体され堀も埋められた。しかし、多くの藩同様に建物や備品は近隣の寺院、役所、学校などに移築されたり民間に払い下げられたのである。解体をまぬがれた本丸御 殿(城の正面玄関と大広間部分)は、郡立中学校・郡庁舎を経て 昭和初年に初雁武徳殿(はつかりぶどくでん)と名を改め 武道の修練道場としても使われたが老朽化もひどく 昭和四十二年に解体復元され「川越城本丸御殿」として歴史をしのばせている。
 
 
 
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